リトルガッタスの意義

http://d.hatena.ne.jp/bet8o/20060816/p1

14日のリトルガッタスファン交流イベントでの出来事です
(中略)
℃-uteメンバーが出ないことがわかると大勢でこれ見よがしに何かを主張するようにBerryz工房が見ているのに前列を歩いて退席する人たちがいました

おそらく℃-uteのメンバーが出ない事への抗議なのでしょう

これはもちろん「人として間違っている」と言えるわけですが、それとは別に「こんな形で両グループの溝が見えたか」と思いました。ここでベリヲタの側から「仲間のはずなのに」と言うのは、今まさにグループのアイデンティティを確立する段階にある℃-uteのヲタにとっては、さらに心の傷を広げる言葉かもしれません。これは「仲間と思っていない」というわけではなくて「対等な存在と見られていないかもしれない」ことへの反発という意味です。


http://d.hatena.ne.jp/aimania/20060815/p1
の論理はわかりにくいのですが、「Berryz工房だけ/℃-uteだけでイベントをやるのなら、何のためのリトルガッタスか」という主張には意味があると思います。ガッタスがグループの壁を越えるつながりを生んでいることから、リトルガッタスにも同じ役割が期待されるところであったのに(もちろんガッタスリトルガッタスの壁も越えてほしい)、裏切られたという怒りは責められないでしょう。
それがあの行動になったのは人として(最初に戻る)ですけど。


これとは直接の関係はありませんが、リトルガッタス側からの意見として「活動の意味がわからない」とか「本業に差し支えるのは困る」というのが聞こえてきます。それはガッタスヲタとしては悲しいことです。
ガッタスのメンバーを見ていれば、歌手としての活動にも確実にいい影響があることはわかると思います。今のとこと活動実績の少ないリトルガッタスだけを見ていたのでは分からないかもしれませんが、壁を作るなと主張しながら、別のところでは自ら壁を作っているような人がいるのは納得いかないものです。本当にやりたい人だけが残って活動を続けることになればまた違うのでしょうか。


もっとも、今年のお台場冒険王に関しては、全体的に無茶なところが多いのは確かではあります。