単推しとDD、または「推し」と「好き」

(引用部分の手前の要旨:高度成長以後の社会の変化はスターに対する視点に矛盾をもたらすことになった。それがスターに対する新たな価値観を生み出すことになったのである)
 筆者は、90年代以降の消費形態を見るとき、こうした背景、こういう構造をもつ記号消費という消費形態を軸に、それに背を向けた人々、それを受け入れた人々、そしてその中間にいる人々という三つの集団と三つの消費態様を想定することができると考えている。
 第一の集団は、記号消費に背を向け、大きな物語を信じる精神的にタフな人々で、コンテンツ消費を繰り返し、意図的に記号の向こうに物語を見、記号に対して意味を見つけようとする(政治的消費)。第二の集団は、記号消費を受け入れ、それを先鋭化させた精神的にこれまたタフな人々で、コンテンツを“記号庫”としてのみ利用して物語の
自己生産・消費を行いながら、自覚的に記号消費を繰り返す(オタク的消費)。
 この潔い二者と強い対称をなすのが、より柔軟な第三の集団である。それはコンテンツ消費の維持と記号消費の受入のどちらにもつけないナイーブな人々で、コンテンツ消費を志向しながら、記号消費を繰り返してしまう。
http://www.ppp.am/p-project/japanese/paper/sakai.html


「記号消費」という表現はわかりにくいのですが、要するに芸能界の虚構性と向き合うことになった人々がそれにどう対応するようになったかという話です。
「第一の集団」というのは、「邪魔な情報」(例えば彼氏がいるとか)を見なかったことにして擬似恋愛に没頭できる人たち、ということになると思います。「第二の集団」は、一歩引いて見守ることができる人たちということになります。そしてどちらにもなりきれないのが「第三の集団」です。
これはハロプロ界隈の用語では「好き(擬似恋愛)」と「推し」になります。こちらでは「単推し⇔DD」と解釈されていますが、「好き⇔推し」とは深い関係があるものの別物です。


これを踏まえてこちら
この人の場合、「劣化」と書いているのは成長に伴う変化の読みにくさを言いたいのであって(それなら「難しい時期」などのほうがいいのでしょうが)変化しないことを望んでいるわけではないように読めます。
というわけで、

ただ、キャッチーなルックス重視のハロプロだと、どっちへ転んでも結果オーライだから、つーかそれ以前にオンリーファンはそういうのを受けとめてナンボの世界だから、劣化もへったくれもないんですけどねえ...
http://d.hatena.ne.jp/helloblog/20060922/p1

というのはどうかなと思います。果たして「すべてを受け止めてくれるファン」というのが十分にいるのかどうか。これは現状の必死さだけでは判断しにくいのです。
ここで、DDの定義をはっきりさせておかなければいけません。

後者は私なのですが(笑)、このどちらをDDと呼ぶのかというと、私は(誇りを持って)後者だと思っています。しかし、「DD=移り気」という考え方であれば、前者のほうがふさわしいかもしれません。


定義の問題は置いておくとしても、例えば今年のBerryz工房は「オンリーファン」がかなり崩されて、DDな人の流入でしのいでいたように感じます。重要なのは推しメンへの思い入れより、ハロプロへの思い入れではないかと思うのです。