議論の作法とモヒカン族(?)の思想

http://d.hatena.ne.jp/itaittei/20081021

 「あなたのおっしゃることは分かります」「あなたの気持ちも理解できます」と言い合い、機嫌を損ねかねないことや批判にあたりそうな発言は注意深く避け、本気でぶつかり合うことをせずひたすら気配りに終始し、お互いにお愛想笑いを浮かべあいながら、狭い世間の村落共同体的平和を維持することは、まことに、日本的なあまりに日本的な光景であり、私には、そのような空気は淀んでいるし、息が詰まると感じられるのだ。

http://d.hatena.ne.jp/helloblog/20081022/p3

マジレスすると、私はモヒカン族(ってまだ展開しているのですかねえ)風味の議論を心がけていて、問題分析には興味がありますが、そこに「そんなことを書くお前が(お前も)悪い」的なエッセンスが付加してしまうと、どちらかに荷担することになりそうで、とてもやりにくくなります。なので、そういった日本的にみえる前置きをしつつ「第三者的な考えとしては...」とか「持論(自論)としては...」という(当事者たちにとって)ちょっと外れてしまう話からまず接点を見出そうとします。

ここでいう「日本的」とはすなわち「ムラ社会」的ということのはずですが、「モヒカン族」の反対概念として「ムラ社会」が挙げられているにもかかわらず「私はモヒカン族としてムラ社会的に振舞う」という文章を何食わぬ顔で書かれるとはいぬいぬさん一流のテクニックですね。*1
という用語法の問題はさておき、「誰かを責めたくない」というのは「自身がやられたくない」ということだと思います。そうすれば、「各論に突っ込むのはよいが、(当人の価値観の根本にかかわるであろう)本論を叩くのは避けるべし」というのを、特にいぬいぬさんに対しては心がけたいと思います。


しかし、文章のどの部分が中心かは往々にして分かりにくいものです。例えば用語の使い方にずれがあり、しかもそこに互いの価値観が反映されていてどちらも引けない*2という場合は、各論のようで実は本論だったということになります。「重箱の隅」と言いますが、円形の容器には隅はありません。


「どう見るか」というのは各自ばらばらで当然ですが、「何を見るか」というのは話し相手とは合わせておきたいのです。このあたり「妥協」というよりは「すり合わせ」を理想としています。そのためには互いが何を考えているのか分かっている必要がありますので、用語一つをとっても相手の真意をきちんと把握しておきたいところです。そのためには前後の文脈だけでなく、その人の過去の言動、話し相手や議論のテーマとの関係も含む広義の「文脈」から深読みせざるを得ません。


そんなわけで、私は相手を深く知ればこそ相手に「配慮」することができると考えているわけですが、一方で相手の深いところに立ち入らない「配慮」も理解できます。すり合わせは理想ではありますが簡単ではなさそうです。


関係のありそうな話題
http://anond.hatelabo.jp/20081018175407
会話を楽しもうとしてるのに
空気読みで成り立つ国では無用の論理弁証能力 - 狐の王国

*1:ムラ社会的色彩を持った組織の中でモヒカン族的な自己を貫くための知恵と言えるかもしれませんね。

*2:いぬいぬさんと私のやりとりでは、これが多かった記憶があります。