フィレンツェ落書き騒動に見る闇

世界のエスニックジョーク職人を悶絶させたであろうフィレンツェ大聖堂落書き騒動ですが。

痛いニュース(ノ∀`) : 「落書き女子大生の謝罪に感銘。落書き跡に銘板で学校名を残したい」 フィレンツェの大聖堂が申し出 - ライブドアブログ

608 名前: アテナ(鳥取県)[sage] 投稿日:2008/07/10(木) 21:27:40.34 id:eW9dsIXJ0
女子大「ごめんなさいすいません!」

大聖堂「いいよ、よくあることだから」

女子大「ごめんなさいすいません!、犯人を現地に向かわせますから!」

大聖堂「別にいいって、よくあることだからさー」

女子大「いえいえトンでもない!お詫びに厳重注意にしましたから!」

大聖堂「ああ・・うん・・」

女子大「まだご不満ですか!犯人を現地に送って直接謝罪と清掃させます」

大聖堂「すいません、勘弁してください」

京産常磐大高「私達は解任や停学にさせました!」

伊メディア「マジキチ」

女子大「謝罪しに来ました!こちらは修復費としてお使いください!」

大聖堂「あなた達の誠意はプレートにして残しますから、もうこれで終わりにして・・・」

おまえら「イタリアマジ外道」←今ここ

てなわけで、究極の結果オーライで終わりそうですが、それで納得できない向きはありそうで。

2008-07-11 - planet カラダン

何があの女子大生をして落書きを消しに行かせ、銘板に名を残さしめたのか、それをこちらの方は「権威主義」と呼んでおられます。その端的な例として、昭和天皇の御一行を先導した警察が道を間違えた責任を取って当時先導を担当した警部が自殺未遂を犯した事件を挙げています。

1934年11月16日、昭和天皇臨席のもと陸軍大演習が群馬県の高崎練兵場で行われた。観兵式に出席した後、昭和天皇一行が群馬県桐生市を視察することになっていた。予定された視察順序は「桐生駅-桐生西小-桐生高工」となっていた。地元住民は天皇一行を迎えるために1年前から予行演習を重ねており、出迎える際はひざまずくようにと指示されていた。こうした非日常の光景の中、先導役の本多重平警部(当時42歳)は、左折すべき末広町交差点を直進する過失を犯してしまった。そのため、視察の順序は桐生高工-桐生西小と全く逆になり、先に昭和天皇が訪問するはずだった桐生西小では、天皇一行が行方不明になったと大騒ぎになった。この前代未聞の過失に対して関係者が処分されることになったが、当事者の1人である本多警部は2日後、昭和天皇一行を乗せたお召し列車前橋駅を出発した汽笛と共に、自宅で日本刀で喉を突いて自決を図った。このことは天皇一行にも「警部が責任を取り、自決した」と報告されたという。自決を図った本多警部であるが、日本刀を素手で持っていたため指が切れ、突く力が弱くなり、一命を取り止めたという(一部の資料では死亡したとされるが誤伝である)。
昭和天皇誤導事件 - Wikipedia

 
戦前は現代より、また警察は他の社会より権威主義なのは間違いないでしょうから、その分割り引くにしても、これが現在の日本社会に連続して存在しているのだとするとぞっとします。さすがにあの岐阜市立女子短大生が自殺して賞賛されるほど、現代の日本人は権威主義的ではないでしょう。

そして、それほど根強いものでもないのだと思います。その手の権威主義が定着したのは、400年前に徳川家康が日本の統治システムを確立するために利用したからではないかと思われます。それが300年近い平和と繁栄、しかしある意味での停滞をもたらしたということで功罪相半ばするものではありました。
明治以降、その残滓はゆっくりと日本から取り除かれてきましたが、まだしぶとく残っている、というよりは利用価値があると思われていて、しばしばこのような騒動を巻き起こしてきたのでしょう。
21世紀にもなってそれが必要とされる理由は、さまざまに考察可能だと思いますが、私は一つの仮説として上方コンプレックス、すなわち400年前に江戸が上方を押さえ込んだ思想の封印が解けるのを恐れている人たちがいるのではないかという電波気味の理論を考えています。