卒業の意義

まず結成時のメンバーは元々モーニング娘。を目指したわけではないので、別の目標に向かうためにモーニング娘。を離れるということがありましたが、やがて中澤裕子以降はモーニング娘。を離れたメンバーと、残ったモーニング娘。が共存共栄するという「のれん分け」としての卒業という制度が確立します。しかし、特に5期メンバーが諸事情によりなかなか目立てなかった中での「一人立ちできるメンバーを順に卒業させる」という方針はモーニング娘。の求心力低下を招きました。そしてジリ貧からやがて解散かと思われた中でモーニング娘。は意外な粘りを見せ、卒業メンバーの活動が必ずしも順調でない中、リスクの大きいソロよりはモーニング娘。の看板を守るのがいいということになり、石川梨華を最後に卒業はなくなったかのように見えました。


とは言え、「卒業させられるメンバーがいない」と見られることもまた鼎の軽重を問われるわけで、紺野あさ美小川麻琴によって「別の道に進むための卒業」が復活しました。ここで問題になるのはモーニング娘。の外に目標があるものの、性格的に本人から卒業を言い出しにくそうなメンバーの存在です。


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アーティスト性あるいは物語性を何に見出すかということが、はっちまんさんと私の対立点のようです。私は紺野あさ美道重さゆみのような歌唱力に難のあったメンバーを推したこともあって、ステージでのパフォーマンス以上にその生き様全体にアーティスト性を求めるようになりました。やがて予定調和の卒業システムが行き詰りを見せたところで、その閉塞感を打破する充実をモーニング娘。が示したことでその思いはさらに強まりました。


その頃、結成時点で技量が明らかに不足していたため、言われたことを言われた通りにやるだけで評価される時期が長かったBerryz工房がようやく次の段階に入り、意外性を求められるようになるとかえってモーニング娘。などにはまだ及ばないと見られるようになりました。新興勢力以上にモーニング娘。や元メンバーらにこそ、挑戦者たる自由さはあったのでした。


そこで問題になったのが(またか)、モーニング娘。の中にもいる意外性ということでは物足りないメンバーのことで、こちらは技量不足だったというよりは、なかなか受け入れられない中で得意分野に徹した結果、歌とダンス以外における弱さを指摘されるようになったわけでした。そして「モーニング娘。の本分は歌である」ということが盾になりました。


そしてさらに意外な展開を経てモーニング娘。のリーダーになった高橋愛に、中澤裕子に並ぶカリスマを帯びさせることで「物足りなさ」を克服し、合わせてモーニング娘。の歌へのこだわりを守るという意図があったのでしょうか。それゆえかどうか、先輩メンバーを切り離すことによりハロプロリーダーにもなり、そしてまもなく飯田圭織モーニング娘。卒業時の年齢を超えて歴代2番目の高齢メンバーとなることを控えて、それまでずっと「できない子」だったはずの道重さゆみモーニング娘。の枠を超えてバラエティで活躍するようになり、また久住小春後藤真希に匹敵する早い卒業をするのを見て、ようやく本人から卒業の意思が示されるのが待たれているかもしれません。


以上がモーニング娘。ないし高橋愛の話で、ここからははっちまんさんへの問いかけです。
歌唱力はともかく、生き様には点数の付けようがないわけで、客観的な評価は人気という結果論でしかできないものですが、「実力で負けているはずはないのに人気で負けている」相手がいることが嫌なのかもしれません。こと高橋愛に限っては、バラエティで使えないのはイメージを守るためではなくて普通に力不足だからだと思いますし、個人の人気において圧倒的でないのも、決してファンが低年齢志向だからというだけではないと私は考えます。


また、あれほどベリキューに力を入れられてきた中でモーニング娘。が一定の人気を保ってきたのは、アイドルというよりモーニング娘。が好きなんだという人がそれなりに多いのであって、これ以上のシフトはモーニング娘。がなくならない限りありえないと思います。大体一ヶ月の間を置いたエントリに矛盾があるようで、いったい現在のモーニング娘。のファンとは何者なのでしょうか。


いや、いやそんな込み入った意図があるわけではなく、単純に「追いかけるのに疲れた」ということでしょうか。「俺が疲れたから引退してくれ」なんて言う人はいないものの「追いかける必要がないくらい目立つ活動をしてくれ」という主張は結構見られます。それでも「モーニング娘。高橋愛から離れるわけにはいかない」というのは理解できますし、ポジショントークも大変ですよね。